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ボスニア・ヘルツェゴビナについてのさまざまな情報をおとどけします。 |
■戦後復興に向けて デイトン和平合意の成立により戦闘は終息した。同合意によりボスニアは、ムスリム系及びクロアチア系住民を主体とする「ボスニア連邦」及びセルビア系住民を主体とする「スルプスカ共和国」という2つのエンティティから構成される一つの国家とされた。その結果、戦前は全土のいたるところで混住していた各民族は、自民族の領土とされた地域にのみ暮らすようになった。難民となり、かつての家が他民族の領土となった人々は、故郷に戻ることは難しくなった。両エンティティ間にはパスポートコントロールやボーダーラインこそないものの、それぞれの民族の居住地域は固定化され、共に交わることはなくなった。それぞれのエンティティで独自の警察や軍を有し、形だけの統一国家として出発することとなった。 国家統治は、国際社会による和平履行評議会(PIC:ボスニアにおける和平履行に関心を有する国及び機関の合議体)の下に、民生面を上級代表事務所(OHR)が、軍事面をNATO中心の多国籍部隊(SFOR)が担当している。その成果として、治安は概ね安定、反政府行動やテロ活動などは都市部ではおきていない。しかし、民族間の確執が根強く相互で足の引っ張り合いをしているため、民生面での和平履行は進展が遅い。OHRが掲げている現在の主要課題は、国家機構の整備・強化、難民・非難民帰還の促進、及び経済改革の3点。 ■政治状況 デイトン合意に基づき、戦後はじめての国政選挙が96年9月に実施された。結果は、ムスリム民族主義の民主行動党(SDA)、クロアチア民族主義のクロアチア民主同盟BH(HDZ・BH)、セルビア民族主義のセルビア民主党(SDS)がそれぞれ勝利を収め、いまだに民族間の確執が根深いことが明らかになった。 98年9月には2度目の総選挙が実施され、概ね前回と同様の結果となったが、セルビア人共和国では極右民族主義政党のセルビア人急進党党首であるポプラシェンが大統領となった。しかしその後大統領が指名した首相が組閣できず、さらに大統領はOHRに解任される事態にまで発展し政治的混乱が続いた。 2000年に行われた3度目の総選挙では、中央レベル及びボスニア連邦において、紛争勃発以来初めて社会民主党BH(SDP)を中心とする非民族主義政権が誕生した。この非民族主義政権下において、主要3民族の平等を確保する憲法改正が実現した。しかしその一方で、2001年3月に、イェラヴィッチ大統領評議会メンバー(HDZ)が、クロアチア暫定自治政府樹立宣言し、OHRにより解任されるという事態が今度はクロアチア人側で起こった。 2002年10月に行われた4度目の総選挙では、これまで政権を担ってきた非民族主義政権が伸び悩み、大統領評議会会員選挙では、3名とも民族主義政党出身者が当選する等、結果的に民族主義勢力が伸長することになった。投票率が50%ほどと低調だったこと、経済改革がなかなか進まずに市民の暮らしが良くならない焦燥感が民族主義政党への支持回帰につながったとみられている。 2003年3月には、シャロビッチ大統領評議会メンバー(セルビア人)が、イラクへの武器輸出に関わる問題により、OHRにより解任されるという事態がまたもや起きており、政治的混乱はいまだに続いている。 ■経済状況 ユーゴスラビアにおいては経済後進国であったボスニアは、戦争での国土の荒廃でヨーロッパにおける最貧国のひとつにまで転落することとなった。多くの大工場は戦争により破壊されいまだに再建途上であり、失業率はボスニア・ヘルツェゴビナ全体で40%前後、セルビア人共和国では50%を越えるといわれている。平均月収は2~3万円程度といわれている。紛争中に埋設された地雷の多くがいまだに撤去されておらず、平地の利用もなかなか進まない。 ■社会状況 紛争中に250万人を超えた難民・避難民は、UNHCRの発表ではいまだに60万人程度が残っているとされる。紛争終結から8年経過し、その多くはかつての居住地域への帰還をあきらめたといわれている。他民族の土地となってしまった家に帰還した際には様々な嫌がらせや実害があったことも報じられている。 紛争で国内交通網は大打撃を受けた。近隣諸国とつながる鉄道網は2002年になってサラエボとザグレブをつなぐ路線が10年ぶりに復旧、先ごろブダペスト行きの列車も運行をはじめた。道路網の整備もまだまだ遅れており、サラエボとゼニツァをつなぐ高速道路がやっと半分完成したところである。 旧ユーゴ内戦における犯罪行為については、ハーグに設置された旧ユーゴ戦犯法廷にて裁かれることとなっている。ボスニア内戦の主導者のひとりであったラドバン・カラジッチ元セルビア大統領やラトコ・ムラジッチ将軍はスレブレニツァの大虐殺などに関連して起訴されているがいまだに逃亡中である。 紛争中にムスリム勢力に義勇兵として協力したムジャヒディンは、500名ほどがいまもボスニアに潜伏しているとみられており、米国同時多発テロに始まる国際テロ問題のひとつとして注目をされている。 ボスニア連邦とセルビア人共和国でそれぞれ独自の行政が行われてきたが、少しずつボスニア・ヘルツェゴビナとしての統一も図られてきている。警察の統一はEU主導の下でいま徐々に進められており、先々のNATO加盟には不可欠な軍隊の統一についても検討が続いている。 スレブレニツァの大虐殺以外にも各地でのそれぞれの勢力による虐殺の事実が明らかにされ、数十人規模の集団墓地発掘がいまも相次いでいる。スレブレニツァには2003年9月に記念館がオープンした。 破壊された各地の建物は徐々に再建されている。UNISビル(通称ツインタワー)はきれいに生まれ変わり、オフィスビルとして使用されている。オリンピックのゼトラ競技場も99年に再建された。モスタルの橋「スタリモスト」も2002年より再建が始まり、2003年中に完成予定である。一方で、UNISビル近くに建つ旧議会堂はいまだに砲弾跡が生々しく残ったまま再建されておらず、エネルゴインベストやファモスといった大工場も再建の見通しが立っていない。 戦後なかなか政治行政が機能しない中、内外のNGOがボスニアの復興、市民生活の支援には多大な役割を果たしてきた。しかし、ボスニアの紛争後にコソボで紛争がおき、アフガニスタンやイラクでも戦争が起きたことで国際社会の援助はボスニアからほとんど引き上げてしまっている。いまだに多くの問題を抱え、国としてやっと体裁が整いつつあるなか、まだまだ自立に向けた支援をボスニアは必要としている。 ■参考 外務省ホームページ 地域情報 ボスニア・ヘルツェゴビナ
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