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ボスニア・ヘルツェゴビナについてのさまざまな情報をおとどけします。 |
■ユーゴスラビア…多民族国家の背景と崩壊への道 ボスニア・ヘルツェゴビナ(以下ボスニア)は1992年、それまで属していたユーゴスラビア連邦(以下ユーゴスラビア)より独立して成立した。ヨーロッパとアジアを結ぶバルカン地域は、中世よりイスラム国家であったオスマントルコやカトリック国家であったハプスブルグ帝国などの支配を代わり代わりに受け、その過程で様々な宗教、民族が入り混じり、第2次大戦後に成立したユーゴスラビアは、「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」という表現に示される複合的な国家となった。 ユーゴスラビアは北から、スロベニア、クロアチア、ボスニア、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国により構成されていた。ボスニア以外の各国は各国を構成する最大多数の民族名を国名としていたが、ユーゴスラビアの中間に位置するボスニアは多民族国家ユーゴスラビアの中でも最も民族が混住していた地域であり、民族名ではなく地域名を国名としていた。 ユーゴスラビア建国の父チトーは、民族間のバランスを巧みに取りながら、危うい多民族国家ユーゴスラビアの舵取りを行っていった。しかし、統合の象徴であるチトーが1980年に死去し、それまで比較的好調だった経済状況も悪化、富める北の地域と貧しい南の地域の経済格差は拡大していくと各地で社会情勢が不安定となっていく。 ユーゴスラビアで最も貧しい地域であったセルビア共和国のコソボ自治州では、コソボ自治州内で多数派を占めるアルバニア人による自治権拡大要求が80年代になり激しくなった。その最中に、政争の道具として民族問題を利用しながらセルビア政界に台頭してきたのが後に新ユーゴスラビアの大統領となるミロシェビッチであった。セルビアは共和国内におけるコソボの自治権をさらに縮小してユーゴスラビア連邦の連邦としての権限強化を目指すが、経済主権が脅かされることになるスロベニアと対立、徐々にユーゴスラビアとしての一体性に亀裂が入っていく。 80年代末に入り、東ヨーロッパ諸国では共産党の一党体制が崩壊し自由主義選挙が相次いで実施された。ユーゴスラビアもその流れを受け、各共和国で自由主義選挙が実施されることとなり、各国で軒並み民族主義を標榜する政党が政権を獲得することとなった。スロベニアとクロアチアは、各共和国の更なる自治権拡大を求め、連邦制からより緩い連合形態としての国家連合を求めた提案をし、共和国間での協議が続けられた。しかし、協議が進展を見せない中で、民族自決を求めてスロベニアとクロアチアは1991年に独立を宣言した。南北格差による経済的利害に民族自決が絡んだ結果によってユーゴスラビア連邦は崩壊することとなった。 独立直後スロベニアでは、国境管理権を巡って、スロベニアに駐屯していたユーゴスラビア連邦軍とスロベニア共和国軍とで衝突がおきるが10日間でその争いは終結した。一方クロアチアでは、クロアチア独立に伴ってクロアチアでは少数派となる60万人のセルビア人がクロアチアからの独立とセルビア本国への編入を掲げて自治区を創設、クロアチア軍との間で戦闘がおこることとなり内戦が勃発した。そして独立と内戦の波はボスニアへと押し寄せていく。 ■ボスニア・ヘルツェゴビナ…多民族共生地域の悲劇 サラエボを首都とするボスニアはムスリム人(イスラム教を母体とする旧ユーゴ独自の民族)、クロアチア人、セルビア人の混住地域であり、三者とも南スラブ系の民族であってほぼ同じ言語のセルビア・クロアチア語を使っており、違いといえばイスラム教(ムスリム人)かカトリック(クロアチア人)かセルビア正教(セルビア人)かといった宗教の相違だけであった。 ユーゴスラビアが解体する直前に実施した1991年の国勢調査によると、サラエボ市の総人口は53万人。その民族構成は「ムスリム人」49%、セルビア人30%、クロアチア人7%、「ユーゴスラヴィア人」(第2次大戦後の社会主義体制下で誕生した統合的な民族)11%であった。人口8万のサラエボ中心地では「ユーゴスラビア人」の比率が16%にも達していたように、この町には民族の異なる両親を持ち、自身を「ユーゴスラビア人」としか言いようのない人々が数多く居住していた。 ユーゴスラビアからのスロベニアとクロアチアの独立を受け、ボスニアにおいても独立の賛否を問う国民投票が実施された。セルビア人がボイコットする中、有権者総数の62%が独立に賛成し、1992年の3月にボスニアはユーゴスラビアからの独立を宣言した。しかし、独立賛成派のムスリム人・クロアチア人勢力と独立によりボスニア内では少数民族となってしまうセルビア人勢力との中で武力衝突が勃発してしまう。 ユーゴスラビアでは全人民防衛体制が敷かれていたため各行政単位ごとに武器が保管されており、紛争開始と同時にその武器が瞬く間に市民一人一人の手に広まってしまった。その中で極右民族主義勢力が武力闘争を主導し、民族主義政治勢力がメディアによるプロパガンダで民族対立をあおりたて、市民たちは「やらなければやられる」立場に追い込まれてしまった。 ■ボスニア紛争の経過 ボスニア紛争では、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人のそれぞれの勢力が領域拡大を目指して衝突を繰り返した。他民族の自己領域からの排除のため、「民族浄化(エスニック・クレンジング)」と呼ばれる追い出し政策をそれぞれの民族が推し進めたため、難民・避難民は総人口の半分を超える250万人近くにまで達した。敵対民族を根絶やしにする目的で「集団レイプ」が組織的に行われ、「強制収容所」に敵対民族を連行・虐待していたことなどは欧米諸国でも報道され、世間を震撼させることとなった。 戦局は武装度で優位に立つセルビア人勢力が領土を拡大してボスニアの6割を支配下におさめる一方、クロアチア人勢力が3割、ムスリム人勢力は1割にまで縮小された。セルビア人勢力にはセルビア共和国が、クロアチア人勢力にはクロアチア共和国が支援を行い、ムスリム勢力にはムスリム諸国から義勇兵(ムジャヒディン)が入ることで紛争は泥沼に突入していく。 当初はセルビア人勢力に対して、ムスリムとクロアチア人勢力が対峙するという構図だったが、次第にムスリム人勢力とクロアチア人勢力も敵対するようになる。中でもボスニア南部の街モスタルでは激戦が繰り広げられ、オスマントルコ時代につくられた歴史遺産の橋も破壊された。 首都サラエボはセルビア人勢力により包囲され、陸の孤島と化した。一番の目抜き通りであるチトー将軍通りは「スナイパー通り」と称され、スナイパーによる狙撃の恐怖に絶えずさらされながらの生活を市民ひとりひとりが余儀なくされた。市場も砲撃され、買い物に来ていた多数の一般市民が犠牲となった。1984年にサラエボオリンピックが開催された会場も破壊され、スタジアムは墓地へと変わった。ボスニア国立図書館も砲撃を受け、貴重な蔵書はすべて灰燼と帰した。 ■国際社会の関与 ボスニアに対して、国連は1992年6月に国連防護軍を派遣し、孤立するサラエボに援助物資が届けられることとなった。 また、ECを中心としながら、「クティリェロ案(3民族ごとのカントン(州)からなる連邦国家、ムスリムが反対)」「ヴァンス=オーエン案(10州による連邦国家、民族ごとに3州、サラエボは共同統治、セルビアが反対)」「オーエン=シュトルテンベルグ案(実効支配地域に基づく国家連合、ムスリムが反対)」などの和平案が提示されたがいずれも合意を得ることができずに紛争は継続された。 国連では明石康氏を旧ユーゴ問題担当・事務総長特別代表に任命して事態の収拾に努めたが、国連防護軍の犠牲が相次いだために、NATOに対してセルビア人勢力への空爆要請がなされ、94年4月になり限定的空爆が行われた。94年12月にはカーター特使がボスニアに入り、4ヶ月の停戦が実現した。 ■スレブレニツァ大虐殺 95年5月に停戦が失効すると、ムスリム勢力とセルビア勢力の戦闘は激化した。国際的に孤立したセルビア人勢力は国連防護軍兵士を人質にとって「人間の盾」にするほど追い込まれていった。 その最中の7月、ボスニア東部の街スレブレニツァは、国連により安全地帯に指定され600人の軽装備のオランダ部隊が展開していたが、重装備のセルビア人勢力に攻撃されたためにオランダ部隊は撤退し、残されていたムスリム男性の8000人といわれる人たちが連れ去られて行方不明となった。ヨーロッパでは、ホロコースト以来の大虐殺として、「スレブレニツァの大虐殺」は知られている。 それ以降、NATOによるセルビア人勢力への空爆は激しくなり、戦闘勢力は急激に低下していく。 ■デイトン合意・終戦 95年11月、アメリカのデイトンにボスニア大統領のイゼトベコビッチ、セルビア大統領のミロシェビッチ、クロアチア大統領のトゥジマンが集められ、和平協定に仮調印することとなった。ボスニアは「ボスニア連邦(ムスリム・クロアチア人、国土の51%)」と「セルビア人共和国(セルビア人勢力、国土の49%)」からなる単一国家として維持されることとなった。3年間で20万人の犠牲者を出したボスニア紛争は、12月のパリにおける和平合意正式調印をもって終結した。
*デイトン合意骨子*
■参考 外務省ホームページ 地域情報 ボスニア・ヘルツェゴビナ |