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サラエヴォに灯る希望の光

このコラムでは現在サラエヴォに滞在中のSFP代表森田太郎が現地の様子、活動を通して感じたこと、出来事などをご紹介します。

【第1回】 「帰郷」
【第2回】 「まだ遠い光の点」 〜前編〜
【第2回】 「まだ遠い光の点」 〜後編〜
【第3回】 「心の中のトンネル」
【第4回】 「皮肉な楽園」

 

【第2回】 「まだ遠い光の点」 〜前編〜

(2003/05/02)

  昨年の11月30日でボスニア・ヘルツェゴビナは終戦から7年を数える。92年の内戦勃発以来、世界中に凄惨な戦争の映像とNewsが流れ、多くの人々の関心を寄せたこの地も、7年という歳月の中に静かに忘れ去られようとしている。

 この7年という歳月の中で起きたことが、ボスニア同様に凄惨なものであったためだろうか、ボスニア戦争の起因である民族問題への関心が著しく薄いものとなってきているとぼくは日本にいる時から強く感じていた。99年のコソヴォ紛争によるNATO空爆、そして9月11日の同時多発テロから米軍主導のアフガニスタン攻撃、そして国際社会の代表である国際連合がついに無力さをあからさまに露呈し、戦争を回避できなかったイラク戦争。
 世界の人々の視線は7年の間にバルカン半島から中東までと、移っていったが、大きな戦争が終わったことで全ての問題が解決されたことではないことを、ここボスニア・ヘルツェゴビナはぼくたちに教えてくれている。

 ボスニア・ヘルツェゴビナという国が7年という歳月に変化したことは、幾分か道路や建物、そして学校などの施設が直ったことで、根本的な変化、発展が必要な人々の生活や心理にはほとんど変化が見られないのが現状。民族問題をがっしりと抱え、両地域の交流を拒む空気、そして異民族を快く思わない心理がまだしっかりと根を据えている。
 特に今年サラエボに帰ってきて感じたことは、根を据えているどころか、人々の異民族に対する心理の後退である。

バシュチャルシィヤ。サラエボの中心にある旧市街で名産の銀細工店も多い。

 4月13日はサラエボ・ダービーで、FKクリロの練習後ぼくは中心街バシュチャルシィヤで金工細工の店を営む親友のもとへと向かった。試合開始2時間前に彼の店に着き、ぼくと彼は車でグルバビッツァへ向かった。この日の会場はFKサラエボHOMEのオリンピックスタジアム・コシェボなのだが、友人を迎えに行くということでグルバビッツァに向かった。その車中、彼は左手に見える山の方角を指し、「戦争中、セルビア人はあそこから俺たちを狙っていたんだ」と初めてぼくに戦争の話を始めた。

 「知っているよ。ここはセルビア人勢力の支配下だったんでしょ?」
 「まぁね、半々というところかな。」
 彼の顔には笑顔がなかった。ぼくとしては大好きなサッカーの試合、しかもダービーの前に暗い話をしたくなかったのだが、彼からのなんらのメッセージだと思い話を合わせた。

 「太郎はボイコビッチに住んでいてよく俺をサッカーに誘うけど、俺はまだセルビア人は好きになれない。これは当たり前のことなんだ。」
 「7年も過ぎているけど、ダメなのか?」
 「あぁそうだな。俺が気持ちよくあの線を越えられないように、セルビア人たちも俺たちムスリムを嫌っている。そんな状況ではなんも変われないよ。」

 彼はドリナ(※1)に火をつけ、もう一度山の方角を見つめながら車をオトカ方面 へと走らせた。ぼくとしては今まで戦争の話はせず、セルビア人への気持ちなど語らずに戦争前のユーゴスラビア代表チーム、ストイコビッチ、ボクシッチ、プロシネツキ、そしてZELJOの監督時代のイビツァ・オシム(※2)について楽しそうに語っていた彼しか知らなかったので言葉が出てこなかった。しかし、沈黙の長さに車内が重苦しくなってきたので、ぼくは思い切って聞いてみた。

 「だけど、ズドラブコ(チェロ)と君はもう友人だよね?」
 「あぁ、ズドラブコは問題ない。太郎の友人であり、もう俺にとっても友人だ。セルビア人であることも知っていても友人だ。」
 「じゃあ、なぜセルビア人を受け入れられない?いきなりではないにしても、少しずつ受け入れていけるでしょ?それに、君の母親はセルビア人でしょ?」
 「母がセルビア人であることを俺はなんも問題だと思っていない。母もここフェデレーション(ボスニア連邦)でなんも問題なく生活している。でも、俺にはまだ彼らを受け入れることはできないよ。」
 「ぼくにはもう言葉がないよ。」
  彼も黙って外に煙を吹いた。

 ダービーは盛り上がったが、ぼくの中では彼の言葉がずっとクルクルと回転していた。2年間も友人で、日本からも手紙や電話で交流していた彼がなぜ今になって急に話し始めたのか、ぼくにはわからなかった。ボスニア連邦でセルビア人に対して気兼ねなく付き合えている数少ない友人のひとりだと思っていただけに、彼の言葉は重かった。

 境界線の街ドブリニャまで彼に送ってもらい、ぼくはセルビア人共和国側のバスターミナルまで歩いた。夜風は南から吹いているようで妙に生ぬ るかった。
 
 アーツォとチェロが迎えにきてくれた。「救われたな!ハハハッ!」とチェロは80分のZELJOの絶体絶命のピンチが神に救われたことを笑っていた。車がFrogに到着すると、ボイコビッチの友人たちが待っていたとばかりにビールを片手に迎えてくれた。
 時計の針は10:30をまわっていた。


※1 ドリナ:ボスニア・ヘルツェゴビナを代表するタバコの銘柄
※2 イビツァ・オシム:現在Jリーグのジェフユナイテッド市原の監督で、90年ワールドカップのユーゴスラビア代表監督。92年最期のユーゴスラビア監督でもあった。