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このコラムでは現在サラエヴォに滞在中のSFP代表森田太郎が現地の様子、活動を通して感じたこと、出来事などをご紹介します。 【第1回】 「帰郷」 |
4月の最終日曜日を飾る復活祭が終わり、ボスニア・ヘルツェゴビナは5月1日メーデーから連休に入る。日本のゴールデンウィークのようなものである。ぼくとチェロも休みになると店が開かず、体育館なども開かなくなるので連休前に済ませておくべき仕事をイリジャで終えた。 復活祭前まで風が南風になってそろそろ春だなと思っていたのだが、この日は初夏を思わせるような日差しと25℃を超える気温だった。ボイコビッチへの帰り道であるブトミールの並木は新緑が美しく、木漏れ日がまぶしかった。仕事を終えて気分が晴れやかなチェロは、1年半前から行こうと言っていた「トンネル博物館」に行かないかと誘った。時間はたっぷりあったし、本当に気持ちのよい日だったので、思い切ってこのまま行くことにした。 サーニャ(チェロの奥さん)の運転で車はブトミールの町を主要な道路から左に曲がり、空港の方角へと向かった。サラエボ国際空港は所在地からブトミール空港と呼ばれる。成田空港が新東京国際空港と呼ばれるのと同じである。空港の出入り口がドブリニャ側にあるのでブトミールという町がどのように関連しているのかはなかなかわかりにくいのだが、出入り口のちょうど反対側がブトミールとなる。
戦争中、この空港近辺にあるブトミール、ドブリニャ、そしてイリジャはサラエボでも最大級の激戦地であった。 住宅街の奥まったところにトンネル博物館はあった。戦争中、スナイパーの銃撃や迫撃砲から逃れながら移動するために作られたトンネル。ブトミールからドブリニャまでつながっている。そこを博物館にしてあるということで、ぼくだけでなく、チェロとサーニャも興味津々であった。なお、このトンネルはボスニア軍の軍事拠点であり、サーニャとチェロがセルビア人であることがわかると少々まずいこともあり、少し緊張していた。 民家のような場所であったが、一応係の人がいて、3人でKM5(※2)の入館料がとられた。
2メートルほど下ると、屈みながら人が1人進めるほどのトンネルが続いていた。両端を木で固定してあり、トロッコ用の線路が引かれていた。中はひんやりとしていて、半袖のチェロは「寒いな!」と言って足を速めた。
戦争中、人々がこの様にして町を行き来していたことを考えると、日常の生活というものが崩れていく恐ろしさを感じた。また、暗いトンネルを歩きながら映画『パーフェクトサークル』(※3)のラストシーンを思い出していた。
博物館の2階にも資料室があり、そこに行ってみると以前SFPのスタッフがよく買って帰った「サラエボ戦争地図」(※4)がかけられていた。サラエボの街を戦車や砲台、戦闘機が囲んでいる絵地図だ。その地図を見た時のチェロとサーニャの顔の変わりようは激しかった。 博物館から出ると、しばらくぼくたちの間に会話はなかった。沈黙がゆっくりと初夏を思わせる日差しの中へと溶け込んでいった。なんともいえない、複雑で重い感情がぼくの心の中でうごめいていた。
Frogに着くと、チェロとサーニャは友人たちにトンネル博物館の話を始めた。友人たちのほとんどが「まったく!」と言って怒っていた。友人だけでなくチェロとサーニャも飾られていたもの、書かれていたメッセージに感じた不快な思いを語っていた。セルビア人である彼らにとって、それは素直な気持ちであろうとぼくは思った。
戦争という暗い日々、冷たい銃口が人々に向けられた日々、人々が抱いていた希望が奪われていった日々、そんな戦争の3年半。そして、その戦争が終わってからの7年が過ぎた。それでも、ボスニア・ヘルツェゴビナという国はまだ「トンネル」から抜け出せないでいる。 |